22 12月 07
あるコラムニストが語っている。 京都で、「ぶぶづけでもどうどす?」と言われたら、「帰れといわれてるんだな」と解読する力が、品格として求められているのか知れない、と。 それがわからなければ、ニブいヤツと思われる。だから、眼の動き、ことばの裏といった「ソシヤル・コード」に気配りが必要ということになる。 私は京都という町の coldness (よそよそしさ)が好きではない。その理由は、相手に早く帰れという意味で「ぶぶづけでもどうどす?」というような表面の慇懃さ、その裏に酷薄なものが隠されているせいかも知れない。 そんなものの解読が「品格」の条件なら、こっちから願い下げにしよう。 あるとき、ある本を企画した。ある編集者に話をもちかけた。関西出身という。 「考えときまっさ」 といわれた。 当然、彼が企画を検討してくれるものと思った。 しばらくしてまた会ったとき、先日の企画はどうなったのだろう、と訊いてみた。相手はきょとんとしていた。 いくらニブい私でも・・・「考えときます」ということばが婉曲な拒絶表現なのだと理解した。すぐに話題を変えた。 むろん、その本の出版は断念した。 こんな小さなことにも関東と関西の違いがある。これをしも「品格」の問題ととらえるべきなのか。 もう一度くり返しておく。 そんなことばの差違を文化の違いとして理解するのはいい。だが、それが「品格」の条件というなら、下品な私としては足蹴にしてやる。 くそッ、ケタクソがわりィや。— 中田耕治のコージートーク