10 6月 10
○ここに、『イギリス・オポジショ ンの研究〜政権交代のあり方とオポジション力』(渡辺容一郎/時評社)という本があります。「まえがき」部分からいきなり感心したんですが、「英 国政治においては、普通の野党のことは”Opposition”とは呼ばない」んだそうです。野党第一党 で、前の選挙で負けるまでは与党だった政党こそが”Opposition”であり、”Government”に対する力を持つ。ということ は、わが国においては今まで「オポジッション」は不在だった。今の自民党が、戦後政治ではほぼ初めての「オポジッション」と呼ぶことができる。— かんべえの不規則発言
(先日、世耕さんにこの話をしたら、「勇気づけられた」と 言ってました。頑張ってくださいね)
○そもそも英国政治においては、二大政党制の源流は名誉革命(1688年)に遡る。日本で言えば、徳川綱吉将軍の下でまもなく元禄文化が栄えようかという 頃である。われわれ日本人としては、その歴史の長さにまずは深く頭を垂れなければならない(赤穂浪士の討ち入りは1701年である)。たまたま、先日の英 国総選挙で「ハング・パーラメント」が生じたからといって、「英国の二大政党制も行き詰っているみたいだねえ」、などと偉そうな口を叩いてはならない。
○名誉革命後の英国では、国王と議会の両方に顔が利いたウォルポールが長らく首相を務めて、その融合体制の基盤を築いた。暴力行為を抜きにして、政治体制 を代えることができたのだから、当時の欧州としては画期的なことであったに違いない。そのうちに、国王に近かったトーリーと、議会下院に近かったホイッグ が、それぞれ党派を作って君主的な要素と議会的な要素を代表しあうようになった。さらに19世紀になり、国王が政治の舞台から後退するようになると、いよ いよ保守党のディズレイリと自由党のグラッドストーンが登場し、英国二大政党制はいよいよ黄金時代を迎える。
○それでは、現在の労働党はどのように誕生したのか。第一次世界大戦という国難を機に、ロイド=ジョージによる自由党と保守党の連立政権が誕生する。今風 に言えば「大連立」だ。しかし戦後になっても連立はなかなか解消せず、この間に社会主義勢力であった労働党が、急速に台頭することになる。
○久々に連立が解消した1922年選挙において、保守党が大勝して与党となった。その翌年、ボナ=ロー首相が健康上の理由で引退すると、後継のボールド ウィン首相はなぜか関税政策を争点に解散総選挙に打って出る。保守党は比較第一党となったものの、保護貿易政策は受け入れられず、「ハング・パーラメン ト」が出現する。そこで組閣の大命は、第2党となった労働党のマクドナルド党首に降下した。このとき、労働党内ではさまざまな意見が飛び交ったのだそう だ。(P66)
(1)わが党には政権担当能力はない。自由党と連立しよう。
(2)組閣して社会主義政策を断行しよう。保守党と自由党に反対されたら、解散して国民の信を問え。
(3)とりあえず少数与党で船出して、自由党の言い分もときどき聞こう。
(この意見の割れ方、いかにも左派政党らしくて面白いですな)
○結局、労働党は(3)を選択する。マクドナルド内閣は、柔軟で現実主義的な路線を採ったわけである。この内閣は短命に終わり、保守党による第2次ボール ドウィン内閣に後を譲ることになる。どうやらボールドウィンの長期戦略は、労働党との政権のキャッチボールを続けて、自由党をじょじょに退潮させることに あったらしい。そしてこの間、労働党は少しずつ政党としての能力を強化していく。つまり出だしで欲張らなかったからこそ、安定軌道に乗ったわけである。
○英国労働党の歴史を鑑とするならば、民主党もなるべくLow keyな路線を目指すべきであろう。何しろ今まで「オポジッション力」を蓄えてこなかったのだから。綱領を作るとか、外交・安保政策をまとめるとか、その 辺の地道な活動が必要となる。英国労働党はそれをやったから、今日の姿がある。