— 昨日のあれみたいだけど - finalventの日記が、実は、社会学というのを作ったのは、マッ クス・ヴェーバーなんですよ、というあたり、まあ、それもドグマでしょみたく言われ るけど、なのでもうちょっと限定的にいうと、理解社会学ということね。
極論すると、理解社会学とはなにかがわかるということが社会学ということなのな。
いやもちろん、理解社会学なんか無視しても数値だけで社会学はできますよ。しかし、これはちょっとめんどくさい議論になるけど、出てきた数 値とやらは、ようするに常識に合致、あるいは驚きの数字であっても常識判断に合致するということが前提になって、ようするにその常識なる社会理解に循環的 に包含されてしまう。
つまり、それは、社会学的な常識が前提になるんだけど、それ自体が近代の特異な現象であることはガチ。じゃあ、そういう近代の特異な合理的 常識、つまり社会的定見みたいなものが歴史のなかでどうして出現したのかと問わないと、実は、その合理的常識のなかに潜む社会的な問題に気がつくことがで きない。
これに、ヴェー バーが気がついちゃったというのが、彼の天才でもあるし、病理でもあったということで。で、それは何かというと、呪術からの解放ということ。 die Entzauberung der Weltというやつね。
なぜかしらないけど、近代西洋が脱呪術化を行った(かのように見える)ということを内省的に了解していくということが、つまり、世界の文明 の総体的な理解になるんだよということ。そしてそこに人類意識に課せられた課題があるんだよということが、ヴェーバー先生わかってしまったということ。
もちろん、そんなの比較文化論で もわかるし、オ リエンタリズムみたいな視点とかカルチャラルアホーズみたいな視点からでもわからないでもない、みたいなフラットなことも言えるけど、その手のポ ストモダンな阿呆どもは、その内在に潜む倫理性の魔みたいなものを前提に無視したから、むしろ世界の側の力に圧倒されるか、「知性」というかいうお商売に 隔離されてしまい、学が学たらんとする世界に起立する意志を失ってしまったのな。
で、ヴェーバーは、ほいじゃ、このEntzauberungに前段として、理解社会学とはどういうものかというのを示すためにプ ロ倫を書いたわけですよ。
で、理解社会学が恐ろしいのは、これをよく主観とか阿呆な理解されがちなんだけど、数値客観とかすると実はそのインタプリテーションは主観 的云々というループになる。で、ヴェーバーのいう理解というのは、英語でも、understandingとかinterpretationとかに誤解され るけど、そうじゃなくて、エートスとい うのが一種の社会意識という特殊な実在性の問題だということ。というか、およそ、存在の意味性の根拠性は、この社会性の意識のなかにある。このあたりは、 言葉というものの命名の不思議を考えると、愕然としてくるものがある。