23 6月 10

 ヨハン・クライフは言う。サッカーチームには、10人の選手と、1人の左ウイングがいる。左ウイングは戦術の外側にいる、と。

 チームには、優れた戦術と、理解し、忠実に従う10人の選手、そしてそれを無視する自由な個人が1人、必ず要るのだ。

 意味もなくドリブル突破をはかったり、パスを出すべきところでシュートを打ったりと、その行動が味方にすら予測できない馬鹿が1人いるからこそ、 戦術に厚みが増す、という理屈である。

 味方にすら理解できない選手の行動を、相手が予測できるわけがない。予測できない敵の攻撃を、防ぐのはとても難しい。

 ゆえに彼は(彼も)、貴重な戦力なのだ。


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 自由な左ウイングの、自分勝手な行動の責任を負うのは、選手本人ではない。起用した監督である。

 小学生のとき、好きな言葉を「自由」なんて書くと、自由っていうのはね、自分勝手とは違うんだ、それは責任をともなうものなんだよとお節介なこと を言ってくる先生が必ずいた。

 うざい、とずっと思っていた(今も思っている)。

 外国なんかでは、企業や、大学など、プロジェクト・チームを組むとき、その方向性とは必ずしもストレートに合致しない半端者(オッドマン)を加え ることが多い。

 オッドマンがいるチームは、いないチームより遥かに早く目標をクリアできるというのだ。一見能率的に思える、「同じ」歯車だけの集団は、かえって 非効率的なのである。


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 同質化した、規格品だけの集団は、大きく失敗することはないのかも知れないが、飛躍することもない。急激な変化に対しても、脆い。

 自由と自分勝手とは違う、と子供を諌める大人は、自由が集団にもたらす大変化を恐れ、保身をはかっているにすぎないのである。

 自由人は、共同体に対し一定のリスクを要求する。そのリスクを取らなければ勝利や進歩はないわけであって、個人が自由であることの責任の一部は、 きちんと、共同体のほうで負うべきなのだ。


僕は、「自由と自分勝手は違う」と言って、責任のことを持ち出す大人が、大嫌いである。: ぼくのWeblog